言語によるコミュニケーションは難しい。

五月ですね。ゴールデンウイークも空け、忙しい日常に戻られている方が多いと思います。いわゆる五月病のような気分になっている方もいらっしゃるかもしれません。

今年のゴールデンウイークはいかがでしたか?僕自身は、山梨県は甲州市・塩山での日帰りヨガリトリート、世界遺産高野山での結縁灌頂への参加、京都での大親友との再会、神戸でのヨガワークショップ、コンテンポラリーダンスのリハーサル、友人宅や自宅でのホームパーティーなどなど、例年に比べても非常にアクティブで充実した時間を過ごすことができました。わざわざ遠方からリトリートやワークショップに参加してくださった生徒さんや、沢山遊んでくれた友人の皆に感謝しています。ちなみにゴールデンウィーク最終日、母の日にはスイスに住む姉が第二子となる女の子を出産。この上なく嬉しい締めくくりになりました。

 

さて、表題の件です。

いつの頃からか、僕は言語によるコミュニケーションは難しいと考えるようになり、それは今でもずっと変わりません。「弁護士なのに、大丈夫?」と思われるかもしれません。実際、こういうことを言うと、「弁護士なのに?」と笑われることがほとんどです。しかし、実際に弁護士として法律関係の文書を作るだけならともかく、法律から離れたコミュニケーションをすることと、弁護士としてのスキルを持っていることとは全くと言っていいほど関係がないと僕は思っています。

「送り手と受け手のバックグラウンドが違えば、それぞれの理解・解釈が異なる」

なぜこの二つに関係がないかと言うと、弁護士が用いる文書(法律など)や作成する文書(契約書など)においては、使われる用語の定義がその文書上に定められているか、あるいは、一般的な解釈が文献によって示されているため、文書に触れる法律のエキスパート同士に理解の食い違いが生じないよう、細心の注意が払われている一方、法律から離れたコミュニケーションにおいてそのレベルでの高度な注意が払われることは少ないからです(もちろん解釈に幅をもたせるために、法的文書の中で定義が曖昧な用語が用いられることは多々ありますが、それらが紛争の争点となることは想像に難くありません。)。  

他方、通常のコミュニケーションにおいては、定義や解釈が統一されないままが用いられるのがほとんどでしょう。たとえば、話している傍で国語辞典をめくって用語についての意義を確認しながらコミュニケーションをとっていれば別ですが、僕が知る限りそのようなことをしている人はいません。そうすると、ある用語や慣用句、熟語等の理解・解釈というのは、その人のこれまでの人生における知識、経験、バックグラウンドに委ねられることになりますので、同じ用語についての理解・解釈について、送り手と受け手の間で齟齬が生じるのは当然ということになります。たとえば、ある人がAという単語をポジティブにとらえていたとして、別の人に対して、「あなたは本当にAですね。」と言った場合を考えます。この時、受け手が過去にAという単語にまつわる思い出したくもない過去を持っていた、あるいは単純に全く違うネガティブな解釈をしていたとしたら、受け手は、イヤな気持ちになり、送り手に良いイメージを持たないでしょう。「いやいや、一般常識から考えたら、この言葉はこういう意味を持っているということが明らかじゃないか」と思われる場合もあるかもしれません。しかし、一般常識というのも、一体どこの範囲をとらえてのものなのか、実に曖昧です。ある地方で育った人の持っている常識が、その他の地方では全く常識として通用しない、10年前の常識が今は常識外れ、というようなことは例を挙げるまでもなくままあることですよね。このように、実は「常識」とは流動的かつ実はあまり汎用性のない脆い概念なので、これに依拠してコミュニケーションをとることは、実は危険なことなのでは、と僕は考えています。

「誤解がありうることを前提にしながらも、丁寧に言語を扱う。」 

では、どのようにして誤解のないコミュニケーションをとれば良いのか。

一つには、言語以外のコミュニケーションの方法を考えることが挙げられます。「どういうこと?」と思われるかもしれませんが、外界に表れる全てのものはコミュニケーションの手段となり得ます。人によってはそれが音楽であり、絵であり、プロダクトであり、踊りであり、あるいは料理だったりする。愛情を込めて作られた料理を口にした瞬間に、作り手の想いがそれを食べた人の心へと届く、悲しみをもって制作された絵画を見た人が共感して涙を流す、というようなことを想像すると言語以外のコミュニケーション方法、という概念が理解できるのではないでしょうか。言語を介さない分、もちろん相手のバックグラウンドによる変換はありつつも、このコミュニケーション方法は、ストレートに相手の心へと流れます。そして、そこには語学という意味での言葉の垣根が無い。僕が言語以外のコミュニケーション方法が大好きな理由の一つです。荒井(松任谷)由実さんの「やさしさに包まれたなら」という曲の中に、「目にうつる全てのことはメッセージ」という歌詞が出てきますが、これを更に広げて、(物質次元においては)「外界に表出される全てのことはメッセージ」であると言える思います。

また、もう一つは、「言語を丁寧に扱う」ということです。上記のような「言語以外のコミュニケーション方法」を用いながらも、やはり今生きているこの世界では言語がコミュニケーションの基礎であることに変わりありません。それであれば、出来得る限り正確に、心を込めて、そして丁寧に扱った言語によってコミュニケーションをとるということが肝要だと思います。新約聖書においても「始めに言葉ありき」と記され、言葉はすなわち神であるとされているほか、日本古来の考え方としても「言霊」という概念が示している通り、言葉には現実の事象に対して何らかの影響与える、霊的なエネルギーがあるとされています。このエネルギーを正しく使うことができれば、コミュニケーションは誤解の生じにくい、滑らかなものになるでしょう。そしてそのためには、可能な限り言葉の意味を正しく理解し、省略したり適当に扱うことなく、丁寧に言語を用いることが実に重要だと思います。 

それでもやはり、言語によるコミュニケーションには誤解を避けて通れない面があります。しかし、そのことを意識した上で、誤解が生じないようにそれを用いることができれば、齟齬や争いやいさかいが大きく減って、お互いのことが理解できるようになると思います。そしてそれが、きっと世界の平和につながる…少しでもそういったことを意識できる人間が増えることを願いながら、自分自身に対する戒めの意味も込めて、今回の記事を結びます。