選択の基準は、「良心」

前回のブログでは「それぞれの人間が、全ての瞬間を大事に過ごし、その時点でのベストな選択をし続けることで、最高に幸せな人生を全うする。」ということを書きました。では、その「ベストな選択」の基準は?

言うまでもなく、選択の基準を間違えると自分のための人生が、全然違った方向に向かってしまいます。そしてある時に人生をふと振り返ってみて、「誰のための、何のための人生なんだろう?」と思うことがあるわけです。さらには、今生を終える際、「あぁ、もっとこういうことがしたかった。あぁいうふうに生きたかった。」となりかねない。そのようにならず、「良い人生だった、楽しかった。」と思うためにも重要なのは、選択の基準を「自分の良心」に置くことです。あるいは、「良心」という言葉を「信念」に置き換えても良いと思います。

たとえば、人生の中である変革を迎える時を想定してみます。この時、一つの選択肢は(A)自分の信念からはしっくり来ないが世間一般(この「世間」というのも、それをどこに設定するのかによって様々なため、非常に脆い概念ですが。)から見て穏当と思われるもの、もう一つの選択肢は(B)社会的にみてまだ誰も成し遂げたこと無いが、自分の信念に限りなく沿っているものであるとしましょう。この時、「自分の良心」を基準にどちらが自分にとってベストな選択なのかを考えた時、自ずと我々は(B)の選択肢を選ぶことになるでしょう。しかし、家族、友人、先輩、上司、社会、その他自分以外の者が「穏当だから」「もったいないから」と言っているというだけで、自分の良心を選択の基準に据えなかった場合、かなりの確率で我々は(A)の選択肢を選ぶことになるでしょう。そのようなケースにおいて、「自分の良心の声」に対しては耳をふさがれ、「自分の信念」の存在は無きものとして扱われます。そして、後から何故その選択をしたのか問われれば(それを声に出すかどうかは別として)「社会的にみて(A)が穏当だと思ったから」という理由を答えることになるでしょう。それが自分の信念からの選択でないことについては触れないままに。でも、その(A)の選択というのは「自分以外の者にとって」ベストな選択であり得ても、「自分にとって」ベストな選択とはとても言えないでしょう。なぜならその選択は自分の良心に従ってなされていないから。

「小さなことからでいいから、良心に従った選択をしていく。」

確かに、自分の良心に従って、いわゆる常識とは違った選択を行い続けることにはある程度の恐怖が伴います。人間は社会の中で生きる生き物なので、自分が属する「社会」とずれや摩擦を起こすことは、怖い。なので、僕としてもいきなりドラスティックな選択をしろということは言いません。(弁護士辞めてヨガの修行に出なさい、とか。)でも、周りにほとんどインパクトを与えないような小さな事柄についてまで良心の声を無視しつづけると、やがてその声が一切聞こえなくなり、結果前述のように何のための、誰のための人生なのかわからない一生を歩むことになってしまう。それって、とても不幸なことじゃないでしょうか。それを避けるため、そして良心の声がいつでもはっきりと聞こえる耳を持ち続けるため、まずは小さいことからで構わないので、良心に従った選択を行う練習を日々の生活の中でしていくと良いと思います。例えば、挨拶に少し笑顔を加えてみる、人が脱いだ靴を揃えてみる、多忙になっている同僚の仕事を少し手伝ってみる、などなど。そうした選択をしているうちに、徐々に自分にとってベストな選択が何なのか、というのが徐々に見えてくるはずです。少しでも多くの方が、そういった選択ができるようになることを願いながら、今回のブログを結びます。明日からいよいよゴールデンウイークですね。良い休日をお過ごしください!